はまらないもの

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雪ノ下雪乃の依頼 - 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11』感想(その3・完)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11』の感想・その3です。


ついに雪ノ下雪乃の認識は暴かれ,再現前される - 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11』&アニメ2期12・13話感想 - In the Midst of Thinking

由比ヶ浜結衣のモノローグ - 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11』感想(その2) - In the Midst of Thinking


読み返してみると,感想・その2が感想らしくなかったので,少し反省しています。
今回は,少しは感想らしくしたいけれど……。


以下,原作11巻(およびアニメ2期最終話)までのネタバレを含みます。ご注意ください。





今回は,雪ノ下雪乃の依頼と奉仕部の今後が主な内容です。つまり12巻(以降)の展開予想ですね。
ネットでいろいろな人の意見・考えを読みましたが,感想に交えつつ,私なりの予想を書いておきたいと思います。

雪ノ下雪乃の依頼

奉仕部はどうして存在するの?

「寄る辺がなければ,自分の居場所も見つけられない……。隠れて流されて,何かについていって,……見えない壁にぶつかるの」
(中略)
 手を伸ばす彼女の姿は,……(中略)……そのまま泡となって消えてしまいそうなくらいに儚い。
 11巻・296ページ


雪乃とて,自分が抱える問題を認識していないわけではありません。それを解決するための努力をしてこなかったわけでもありません。
実際,高校生になった雪乃は自分を変える(=自立する)ための取り組みを行ってきました。一人暮らしを始めたこと然り,奉仕部の活動然り。
そして,そんな雪乃の様子を見た姉・雪ノ下陽乃は,「一人でやるようになった」(10巻・255ページ)と一定の評価をしたのです。

もっとも,陽乃は同時に,今の雪乃は再び「人に頼る」ようになってしまったと断じるのですが(その決定的な転機となったのが,文化祭でした)。

でも,雪乃には,文化祭の後にも,もう一度「一人でやる」道に立ち戻る機会はあったのです。

「あなたのやり方,嫌いだわ」(7巻・250ページ)。海老名さんに偽の告白をした八幡に対して,彼女はこう言いました。このとき,八幡への依存をやめるということもできたのかもしれなかったのです。
しかし,雪乃には,それができませんでした。生徒会選挙のときには「誰かが(とくに陽乃が)進んだ道ではない道」を行くための格好のチャンスを得たにもかかわらず,です。

やはり雪ノ下雪乃は自分から動き出すことができない。彼女は,何度でもまちがえる

平塚先生も言うように,奉仕部はそんな彼女(たち)のための療養所,サナトリウムなのです。

奉仕部の活動

では,その奉仕部の活動内容は何か。
それは,部長である《雪ノ下雪乃自身によって》,つとに1巻において述べられています。

「あくまで奉仕部は手助けをするだけ。願いが叶うかどうかはあなた次第」
(中略)
「飢えた人に魚を与えるか,魚の獲り方を教えるかの違いよ。ボランティアとは本来そうした方法論を与えるもので結果のみを与えるものではないわ。自立を促す,というのが一番近いのかしら」
 1巻・87ページ


しかし,「魚の獲り方」を教えられることを最も欲しているのは雪ノ下雪乃なのです。自立するための方法論を最も知りたがっているのは,彼女自身だったのです。

教えることを通して,自らもまた身につける。それが奉仕部の存在理由なのでしょう*1

雪ノ下雪乃の依頼

だから,雪乃の依頼=奉仕部最後の依頼はこうです。

《「私は,自分だけの力で生きられるようになりたい」》



勝負の行方

雪乃の依頼

では,この雪乃の依頼はどのように解決されるのでしょうか。

そのためには,まず,雪乃の問題とされる「依存」の正体を考えてみる必要があります。

「依存」の正体

「世の中に絶対的な正しさの基準なんてないわ。あるのは誰かが決めた正しさ。今ここでは私の言うことがそれにあたるわね。いいから少し左を下げなさい」
 11巻・113ページ


雪乃は,自分の判断が,他者にとっては正しいものではないことがあり得ることに,気づいてしまっています。それゆえに,自分の判断に自信を持てません。

もちろん,こういったことは誰にだってあることです。
でも,普通は,どこかで「自分も正しい」ということについて自信を得る機会があります。他人から認めてもらう経験をするものなのです。

ところが,雪乃の場合は,少しばかり事情が違いました。

雪乃は,「自分だけが正しい」という絶対的な信念をもっている雪ノ下母のもとで育ってきました。そこは,母親のいうことが正しい,母親の言うことだから正しい,という世界でした。彼女には,「自分が(も)正しい」ということの自信を得る機会はなかったのです。

その結果,雪乃は,他人に正しさの判断を委ねてしまうようになりました。他人に依存してしまうようになったのです。

陽乃の真似もその一環です。
母親に認めてもらえていた陽乃は,雪乃にとって,紛うことなき正しい存在でした。だから,陽乃の真似をすることで,自らも正しくあろうとしたのです(あるいは,もっと直截に「陽乃を見習いなさい」「陽乃ならできたのに」と言われてきたのかもしれません〔9巻・344-345ページ参照〕)。

あるいは,奉仕部の活動で,他人の悩みを解決してあげることができたなら,その経験を通して,自分は正しいと自信を持てたのかもしれません。しかし,結果はご覧の通り。八幡に少しも勝つことができないのです。

負けず嫌いな雪乃の性格も,同じこと。彼女にとって,他人に勝つということは,すなわち,自分が正しいことの証明なのです。自分の正しさに自信を持つためには勝ち続けるしかない,そのように考えていたわけです。

しかし,他人の助けを借りることがまちがったことなわけがありません。時には,他人と助け合うことが正しいこともあります。
ところが,自らの問題が他者への依存であり,独り立ちとは他者の力を借りないでやりきることだと勘違いしてしまっている雪乃は,他者との共存という選択肢が思い当たりません。

別の言い方をします。
自分の中に正しさの核をもたない雪乃が,今だれかの力を借りたとしても,それは他人のあり方を自らの中に投影することにしかなりません。雪乃自身は,とても空虚な存在だからです(11巻・251ページ)。

さらに,言い換えます。
雪乃にとっては,自分が正しいか,相手が正しいかのいずれかしかないのです。彼女は,正しさが,他人との交流の結果の共通了解として現れるものだということを,理解していない。そして,自らの中に正しさの核を持たない以上,理解しようがないのです*2

これが,雪乃の問題です。
周りにその正しさを認めてくれる人がいなかったために,自分の正しさに自信が持てず,その結果,他人と共同して正しさを求めることもできない。これが,依存といわれる雪乃の問題の正体なのです。

雪ノ下雪乃らしさ

このようにして明らかになった雪乃の問題を踏まえて,雪乃の依頼を敷衍するならば,「私に,私の正しさを教えてください」となるでしょう。
そして,雪乃の正しさとは,《雪ノ下雪乃らしさ》のことです。これが,雪乃の救済の鍵なのです。

ここでは,八幡の認識が手がかりになるはずです。
この1年間,八幡(と結衣)は雪乃のことをそばで見続けてきました。そんな八幡にとって雪乃がどのような人間であると写っているのか。これが手がかりになるはずなのです。雪ノ下雪乃はどんな人間なのか,雪乃らしさとは何か。

雪乃が他者への依存をやめることができないのは,雪乃が自分らしさの核心を確信できていないからです。これはすでに見たとおり。
でも,雪乃らしさが存在しないわけではないのです。
それは,八幡の言葉を借りて言えば,「雪ノ下雪乃は強い女の子だ」ということです(11巻・316ページ)。

八幡は同時に,雪乃に対して「理想を押し付けてきた」とも言います。
これは,雪ノ下雪乃のことをよく知らないで,「雪ノ下雪乃は強い女の子であるはずだ」と思ってきた,また,そのように思いながら雪乃に接してきた,ということです。
八幡に言わせれば,このようなうわべの理解に基づく関係はまちがっている。本物ではないのです。そうではなく,深くまで理解し,そのうえで雪乃らしさを認識する,「雪ノ下雪乃は強い女の子だ」と認識する,そのような認識に基づく関係こそが本物なのです。

私なりに言うと,雪乃らしさとは《正しくあろうとすること》だと思います*3

自らの正しさ,強さを確信できない人間の強みが正しくあろうとすることとはどういうことか。
ここで問題になるのが,主観と客観のずれです。

主観と客観の間のずれなんて,誰もが感じていることです。自分が認識している自分と他人が認識する自分がぴったり重なるなんてこと,滅多にあることではありません。
でも,みんなどこかで折り合いをつけています。それは妥協かもしれません。しかし,そういった歩みよりがあってこそ,お互いを理解することができるのです。むろん,そこにたどり着くまでの間に,何度もすれ違い,行き違い,お互いに傷つけ合うかもしれません。しかし,最初の歩みよりなくしては,その道中にすら至らないのです。つまり,妥協は終着点ではなく,出発点なのです。

そして,雪乃は,彼女がとても正しく,強くあるように見えるがために,彼女自身が自らの中に正しさを持っていないことを他人に理解してもらえない,その結果,歩みよりのための最初の一歩を踏み出してくれる人がいない,と言う状態にあります。

これが八幡と雪乃の間に生じていることです。
つまり,八幡が雪乃を正しく理解できなかったことの原因は,雪ノ下雪乃が正しく,強く見えたことにあるのです。

言い換えれば,雪乃自身は自分が正しい,強いとは思っていないのですが,彼女の振るまいがあまりにも正しく,強いので,(八幡を含む)それを見た人たちは,彼女をどこまでも・真に正しく,強い人間だと思ってしまうのです。
しかし,そのような認識は雪乃から見ればまちがっているのです。八幡は,雪乃の弱いところを知った上で,それをひねくれた文脈で肯定してくれて,受け入れてくれるという神様みたいな存在だったわけですが,しかし,雪乃の本当の悩みには気づいてあげられていなかったのです(それでも,雪乃は,八幡が本物を望むならそれに付き合おうと思いました。しかし,それは,自らが正しさであろうとすることを諦め,再び「依存」という生き方に戻ることをも意味するものでした。それゆえ,陽乃からは,信頼よりも「もっとひどい何か」だと言われてしまうのです〔10巻・340ページ〕)。

だから,八幡が雪乃に対して,まずしてあげるべきことは,雪乃に対して,雪乃が強くあろうとしていること,正しくあろうとしていることを知っているぞ,と伝えてあげることです。それは,正しくあろうとあがいている雪乃のあり方を,彼女の主観通りに認めてあげることになります。
これは,八幡の仕事です。なぜなら,雪乃は,自分が八幡に勝てないと思っているから,自分ではなく八幡が正しいと思っているからです。八幡に依存しかかっている雪乃を再び正しい道へと導いていくのは,やはり八幡の責任だと思うのです。

そのうえで,次に,誰かに頼ることそれ自体はまちがったことではないんだよ,と伝えてあげないといけません。正しくあろう,強くあろうとして他人の力を借りることは,まちがった関係(=依存)ではない,ということです。
つまり,正しさは,他者と自己の共通了解として(のみ)現れるものなのだ,ということです。

これは八幡にも欠ける考えですね。もっとも,八幡の場合は,「信頼すること」と言い換えた方がいいかもしれません(11巻・79ページ)。
そうすると,結衣が担うことになるのかもしれません。ただ,結衣が一番近いところにいるというだけで,彼女も本当に分かっているわけではありません。彼女の場合は,「自分の意見を押し殺してしまう」ことが問題です。他人の決定に自分が干渉してもいい,このことを自覚しよう,ということですね。もちろん,奉仕部に入ってから急速に改善してきてはいるのですが。

だから,第二ステップは,雪乃のみならず奉仕部三人にとっての課題ということになりそうです。そして,その先にこそ「本物」が待っているのです。
彼らがこの関門をどうやって乗り越えるのか,それが一番楽しみなところです。

読者としての願い

雪乃にとっての不幸は二つです。
一つは,周りに彼女の正しさを認めてくれる人がいなかったこと。もう一つは,彼女がとても正しかった(まっすぐだった)こと。

反対からみれば,これが解消されれば,雪乃の問題も解消されるということです。

つまり,いま八幡(と結衣)が雪乃のことを正しく理解しなくとも,いずれ他の誰かが理解してくれるかもしれません。それは,惨めな雪乃の姿をみかねた葉山かもしれません。
あるいは,雪乃が正しくあろうとすることに見切りをつけ,雪乃自身が変わることができるかもしれません。
このことは,まさに平塚先生の言うとおりなのです(9巻・234ページ)。

しかし,同時に,読者としては,奉仕部という場所で雪乃に幸せになってもらいたいものだと思うのです。
彼女がこれまで苦しんできたこと,悩んできたことを知っているから。彼女が,この場所で得がたい幸せをつかみかけていることを知っているから。そして,なにより,この機会を逃したならば,彼女がいつまでも後悔することになるであろうことが,予想できてしまうから。しかも,それは,二重の意味での後悔になってしまうであろうから。

だからこそ,ほかでもない八幡に,雪乃の願い(9巻・342ページ)を叶えてもらいたいのです。

勝者の命令

 自分一人の力で,自分一人の意志で頑張ることこそは成長の第一歩だ。独りで立ち上がって,独りで歩いて,そうして初めて誰かと歩くという意味がわかるのだと思う。
 11巻・105ページ


こうして勝者となる(勝者になってほしいと私が思っている)八幡は,勝者に与えられた命令権をどのように使うのでしょうか。

これは,すでに物語の中に答えがあると思います。そう,《「俺と友達になろう」》です(1巻・70ページ,6巻・350ページ)。

すでに見たとおり雪乃の依頼が独り立ちすることにあるならば,この物語(それは「雪ノ下雪乃の救済」の物語であるというのが,私の理解です。もちろん,奉仕部三人の物語でもあるのですが,核となっているのは雪乃だと思います)の終わりは,雪乃の独り立ちになるはずです。つまり,雪乃と八幡が付き合うというエンディングは,この物語のエンディングとしてはふさわしくありません。

別の言い方をします。
正しいラブコメのためには,主人公たちが自分の意志で歩くことが必要です。この物語のラブコメが「まちがっている」所以は,ここにあります。
とすれば,《まちがったラブコメの終わり=雪乃の独り立ち=正しいラブコメのはじまり》となるはずです。かりに雪乃と八幡が付き合うことになるとしても,それは別のお話ということになるわけです。

結衣との関係について少し補足しておきます。
「友達になろう」という言葉は,結衣との関係では,雪乃に対するのと少し意味合いが変わってきます。それは,「今はまだ友達でいさせてくれ」となるはずです。ここまではっきりとアプローチをかけている結衣に対してこんなことを言えば,実質振ってるに等しいじゃないかという気もしますが,そうではありません。この時点で,ようやく八幡の方で結衣の気持ちを「正しく」認識することができたということです(「これから考えさせてくれ」という意味になるのかも?)。

ということで,この命令によってもたらされる結末は,恋愛エンドではありません。八幡は,雪乃とも結衣とも付き合わない。でも,将来的な恋愛関係への発展は留保されます。もちろん,卒業後に別の進路をとり,疎遠になってしまう可能性も内包されます(とはいえ,すでにはっきりした恋心を抱き,アプローチもかけている結衣からすれば,振られるに近いところがあることは否定できません。それでも,雪乃エンドではないと思います。雪乃・八幡と結衣・八幡の距離・関係に違いがあるとしても,それは,物語が動き出した当初の距離・関係の差の反映にすぎない,ということです)。
いずれにしても,(雪乃のみならず)奉仕部の三人が「自分らしさ」を正しくつかみ取ることによって,この物語は終幕を迎えることができます。独りで立ち上がって,独りで歩くようになった彼らが,その後誰と一緒に歩くことになるのかは,別の物語になるはずです。

雪ノ下陽乃について

最後に雪ノ下陽乃について軽く触れて,11巻の感想を終えたいと思います。

妹に対する陽乃の態度のわけ

雪ノ下陽乃は,名家・雪ノ下家の長女として振る舞うことを求められてきました。そこに彼女の自由意志が介入する余地はなかったのでしょう。

その結果,陽乃は「雪ノ下家の長女」に依存しています。「陽乃らしさ」とは「雪ノ下家の長女らしさ」によって規定されているのです。

せめてもの救いは,「雪ノ下家の長女」と「雪ノ下陽乃」が同一人格であることです。「雪ノ下陽乃」は「雪ノ下家の長女」に依存しているけれど,反対に,「雪ノ下家の長女」も「雪ノ下陽乃」に依存しています。共依存の関係です。このような共依存が,ひとつの人格の中で完結しているので,他者依存にはならない。そのため「自分」を保つことができるのです。
でも,器が空っぽであることには変わりがありません。「雪ノ下家の長女」という器に集まってくる周囲の期待・希望に依存して,自分を規定しているにすぎないのです*4

雪ノ下家の長女として生まれた陽乃は,周囲の期待・希望をくみ取るための器=自分らしさを,自ら選ぶことができませんでした。
おそらく,彼女はこのことを心の奥底では不満に思っているのでしょう。でも,その選択をやり直すことはできない。彼女にその自由はないのです。

だから,陽乃は雪乃を見てうらやむのです。

「雪乃ちゃんは自由でいいな」と。

同時に,雪乃が許せない。

「自由を腐らせようとしている」から。
雪乃のそういうところが,「すごく気に入らない」(10巻・341ページ)のです。

雪ノ下陽乃には「積もる話」がない

このように,雪ノ下陽乃らしさは,彼女自身によって積み上げられ,形作られてきたものではありません。それは,「雪ノ下家の長女」という器に集まってくる周囲の期待・希望の集積なのです。

その結果,起きること。
それが,彼女だけで積もる話はできない,ということです(11巻・168ページ)。

だから,陽乃は,「憧れの先輩」と尊敬してくれるめぐりや,器に合わせて作ってきた人格を期待通りに怖れてくれる八幡を,一緒に連れて行こうとするのです(11巻・168-169ページ)。彼女の淵源は,たどっていけば他人に行き着くからです。

八幡に化け物扱いされている陽乃の人間らしいところが,一瞬だけ垣間見えた貴重なシーンでした。

おわりに

以上,11巻の感想でした。

11巻では,これまで積み上げてきたことが,登場人物の認識を通して再確認されました。同時に,雪乃の救済という最終章へと向かうための準備が整いました。
材料はすべて出そろっています。あとは,どうやって料理するか,です。私の予想は以上の通りですが,これをこえる物語を読めたらいいな,という思いでいます。

葉山界隈の読み込みが甘いですし,(本筋にはあまり影響のない,要するに癒やしである)いろは関連の落ち穂拾いもしたいところですが,あまり余裕がないので諦めることにして,11巻の感想は(その3)で完ということにします。

さて,残りの巻数も気になるところです。
私は,次巻・12巻で本編完結だろうとは思っていますが,上下二分冊構成もありうるとも思っています。物語としては次が最終章だけど,あと1冊か2冊なのかは分からない,という予想です。
本編とは別に,後日談編の短編集にも期待しています!

最終章の映像化がどのように行われるのかも注目ですね。
OVAか劇場版か。劇場版の方が可能性が大きいような気がしていますが,もしそうなら近いうちに何か発表があってもおかしくなさそうです。年末から来年の頭にかけて何か動きがあるとうれしいですね(ガガガ文庫の新シリーズと電撃の新連載があるようなので,どうなるかは分かりませんが)。

最後に*5
このラノ」三連覇&殿堂入り,おめでとうございます!

*1:しかし,それは,どだい無理な注文です。 だって,彼女はつい先だってまで,他人に依存しながら生きてきたのですから。彼女が知っている生き方は,依存しながら生きるか,依存されながら生きるか,その二つだけです。依存関係ありきです。 そんな人間が,依存関係に頼らずにすむ自立するための方法を授けるなんてできっこない。 それが分かっているなら,彼女が奉仕部にいる必要はないのですから。

*2:この意味で,実は八幡もまちがっています。 彼の解決方法は,たとえ傷つく人がいたとしても,それが自分だけなら,自分がそのことに納得している限り構わない(正しい)だろう,というものです。しかし,八幡が傷つくことに納得しない者は,八幡の他にもいるのです。八幡のことを大切に思っている人たちのことも考えなければ,それは,正しいものだということにならないのです。 だから,八幡の方法も,正しいものとはいえないのです。 とはいえ,八幡は,自らのやり方が,自分にとってだけではなく,誰から見ても正しいものだと,心の底から信じています。ここが,自分の中に正しさを見出すことのできない雪乃とは違うところです

*3:だから,雪乃におすすめの進路は法曹(弁護士あるいは裁判官)です。 彼女が文系という進路を自らの意志で選んだのかは分かりませんが,その選択自体はまちがっていないと思います。法学部に進むといいんじゃないかな。

*4:葉山も陽乃と同じです。 ただ,葉山は,陽乃のやり方を真似たという点では雪乃と同じですが,共依存を同一人格内で完結させたという点で陽乃のやり方を完全に模倣していますから,やはり雪乃とは違う。 でも,それゆえに陽乃からしてみれば葉山はつまらない存在です。だって,自分とパラレルの存在だから。

*5:Tumblrのコメントで感想の続きを催促してくださった方も,ありがとうございまし た。半年近く放置していた感想のつづきを書くきっかけは,あなたの催促と,今年のこのラノの結果を見たことでした。