はまらないもの

とりとめのない文章集

愛ゆえに、一色いろはは「先輩」呼びにこだわる。


はじめに

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(渡航著、ガガガ文庫)シリーズの登場人物である一色いろはは、主人公・比企谷八幡のことを「先輩」と呼び、決して「比企谷先輩」とは呼びません。

あいつ、なんで頑なに俺の名前呼ばないんだろうな……。(10巻289ページ)


八幡の同級生である雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣葉山隼人のことは、それぞれ「雪ノ下先輩」(プロム編の途中からは「雪乃先輩」)、「結衣先輩」、「葉山先輩」と呼ぶのに、八幡のことをかたくなに「先輩」とだけ呼ぶのはなぜか、本編の記述を手がかりに考えてみます。

「先輩も雪乃先輩も結衣先輩も葉山先輩も……ついでに戸部先輩とかのその他大勢もちゃんと送り出したいんです」(13巻103ページ)


「先輩」と呼ぶ理由

理由1:名前を覚えていなかった

そういえば、なんでこいつ俺の場合は先輩ってだけ呼ぶんだろうな……。あれか、ひょっとして名前覚えてないのか。(9巻361ページ)


名前を覚えていなかったのは、最初だけ

柔道大会でのすれ違いは別とすると、いろはと八幡の初対面は、生徒会選挙編(8巻)にて、いろはが平塚先生とめぐり先輩に連れられて相談のために奉仕部を訪れたときです。このとき、自己紹介タイムは省略されたため、八幡が自分の名前を名乗ることはありませんでした。

「あ、一色さんと面識はあるんだね。じゃあ紹介はしなくても大丈夫かな」  そのやりとりを見ためぐり先輩がうんうん頷きながら言った。(8巻44ページ)


この相談の間、八幡の名前が呼ばれたのは一度だけです。なお、引用はしませんが、雪乃は、ずっと「あなた」と呼んでいます。

「あの、比企谷くん?」
 めぐり先輩が少し驚いた様子で俺に声をかけた。(8巻67ページ)


二度目にいろはが奉仕部を訪れたときの様子からすると、この相談のときにいろはが八幡の名前を覚えたとは考えにくいです。

一色いろはは雪ノ下たちと向かい合って座っていた。身体ごとくるりと振り返って俺を見ると、この人誰だっけなーみたいな不思議そうな表情をした後、とりあえず笑顔、と言わんばかりににっこりと笑って軽く礼をしてきた。まあ、一色からすれば俺は取るに足らない存在だろうから無理はない。 (8巻122ページ)


ですから、少なくとも最初は、いろはは八幡の名前を知らないから、「先輩」と呼び始めたのでしょう。問題は、いろはが、いつ八幡の名前を覚えたのかです。


名前を覚えたタイミング

名前はともかく、顔についていえば、遅くともはやはちダブルデーを目撃した時点で、いろはは八幡の顔を覚えています。つまり、八幡を「その他大勢」程度には認識しています。

「先輩、どうしたんですー? あ、遊んでるんですかー?」(8巻175ページ)


もっとも、名前ということになると、前述のめぐり先輩の発言を除き、いろはが八幡の名前を聞くシーンは描写されないまま、生徒会選挙編は終了します。

理屈のうえでは、いろはが八幡の名前(苗字)を覚えたのは、「いろはの中に『あの先輩の名前を覚えよう』という考えが生まれた後、はじめて八幡の名前を聞いたとき」といえそうです。

後者については、クリスマス合同イベント編以降、平塚先生らが、いろはの前で「比企谷」と呼ぶシーンが何度も登場するため、深く考える必要はないでしょう。要するに、名前を知る機会はいくらでもあります。

 ふっと短いため息を吐いてから、平塚先生は俺と一色を交互に見る。
「しかし、比企谷と一色か……。面白い取り合わせだな」(9巻93ページ)


「あれー? 一色ちゃんと比企谷じゃん」
 傘を大きく上げて、俺たちに声をかけてきたのは折本だった。(9巻187ページ)


これに対し、前者(いろはの中で八幡が「取るに足らない存在」ではなくなったタイミング)は、議論の余地があります。

クリスマス合同イベント編(9巻)の冒頭で、すでにいろはは八幡を頼りにしていますから、それ以前、具体的には、生徒会選挙編で八幡から口説かれたときが本命です。

 一息にまくしたてると、一色は目をぱちくりと瞬かせた
「……先輩ってもしかして頭いいんですか?」 [中略]
 そこで言葉を区切ると、一色はとびきり底意地の悪そうな笑みを見せる。
先輩に乗せられてあげます」(8巻319ページ)


 一色は俺たちの逡巡を気にも留めず、可愛く縋るような、ともすれば情けないともいえるような声を出し、俺の近くまで歩いてくる。それから、ふえぇ……とわざとらしく半べそをかき始めた。
せんぱーい、やばいですやばいです……」(9巻47ページ)


次点は、いろはが八幡にときめきかけ、初めて好感度メーターが上昇した瞬間。このイベントで初めて好感度メーターが生まれたと考えるならば、本命とする余地もあります。 しかし、私としては、すでに好感度を獲得できる下地が存在しており、その下地となったイベント(前述のとおり、図書館で八幡から口説かれたとき)の方が本命と考えています。

 一色は自分の髪を撫でながら、俺からそっと視線を外した。驚いているのか戸惑っているのか、ほんのり顔が赤い。[中略]
「はっ! もしかして、今の行動って口説こうとしてましたかごめんなさいちょっと一瞬ときめきかけましたが冷静になるとやっぱり無理です」(9巻68ページ)


いろはが奉仕部部室の扉の前で固まってしまったときも候補ですが、さすがに遅すぎるでしょう。

「……わたしも、本物が欲しくなったんです」[中略]
「忘れませんよ。……忘れられません」
 そう答えた一色の表情は常よりもずっと真剣だった。(9巻361ページ)


ちなみに、本編終了時点では、いろはが八幡のフルネーム(と漢字表記)を知っていることは確実といってよいです(アニメ版では、申請用紙に八幡のフルネームが記載されていることを確認できます)。

 そこには、部活動創部の申請云々が書かれており、『奉仕部』の文字が躍っている。さらに、部長の欄には比企谷小町と書いてあり、以下、雪ノ下と俺の名前がつらっと連なっていた。諸々の必要事項もばっちり記載されているようで、生徒会が認可したであろう印章がばっちり捺されている。(14巻519ページ)


というわけで、いろはは、遅くとも、八幡がはじめてクリスマス合同イベントに参加した日(より具体的には、以下のシーン)までに、八幡の名前(苗字)を覚えた、というのがここでの結論です。

ふっと短いため息を吐いてから、平塚先生は俺と一色を交互に見る。
 「しかし、比企谷と一色か……。面白い取り合わせだな」(9巻93ページ)


個人的には、生徒会長になることを決めたいろはが、報告のため平塚先生と会ったときに、「奉仕部の先輩からいろいろ言われて、そういのもありだなって」「そうか、比企谷か……」(比企谷先輩、か。覚えておこうかな) というやり取りがあった、という妄想も気に入っています。

いずれにしても、「いろはが八幡の名前を覚えていなかったから」という答えでは、部分点しか得られません。冬休み明け以降も「先輩」呼びを続ける理由を、考える必要があります。


理由2:恥ずかしい

「先輩がいるかどうか聞くの超恥ずかしかったんですよ」(12巻244ページ)


超恥ずかしかった

別の理由として考えられるのは、恥ずかしいからというものです。

その推測の根拠となるのは、次のシーンです。

「あ、ほんとにこんなとこいる」[中略]
「……ていうか、なんで先輩教室いないんですか! わたしわざわざ行っちゃったじゃないですか! 先輩がいるかどうか聞くの超恥ずかしかったんですよ」
 その恥ずかしかった思い出とやらがリフレインしているのか、顔を真っ赤にし、ぐいぐいと俺の肩口をめったやたらに引っ張って抗議してきた。その勢いは止まらず、さらに言い募る。
「しかも! しかもですよ! 戸部先輩が周りの人にでかい声で聞くんですよ! わたしが先輩を捜してるんだけど知らないウェーイとかなんかとか! ありえなくないですか!?」(12巻244ページ)


いろはが自分で「超恥ずかしかった」というのですから、恥ずかしいと感じたのは間違いありません。問題は、何に対して恥ずかしいと思ったかです。

たとえば、一般論としては、「上級生の教室を訪れて、異性の先輩を呼び出してもらう」という行為を恥ずかしいと感じることはありそうです。しかし、いろはは、衆目のもとでも平気で葉山にアタックする人物です。その程度のことを恥ずかしく思うわけがありません。

あるいは、葉山なら気にしないけれど、八幡だから周りの目が気になるのでしょうか。たしかに、今回は、戸部が「いろはすがヒキタニくん捜してるんだけど、だれか知らない?」と大声で宣伝したことも含めて、恥ずかしいと思っているようです。

しかし、いろはの性格とか、マラソン大会やバレンタインイベントのときの振る舞いを思い返すと、本来、いろはは周りの目を気にするタイプではなさそうです。むしろ、周りに見せつけてやろうという意気込みを持っているくらいでしょう。

「……先輩も頑張ってくださいねー!」
 今度はどうやら俺のほうを見て言っているらしい。(10巻289ページ)


「えいっ!」
 一色の声と一緒に、頬をかすめてスプーンが口に突っ込まれる。(11巻146ページ)


「しかも」といういろはの口ぶりも併せて考えると、「戸部先輩」のくだりは、付加的な原因と捉えるのが穏当なようです。本当の理由は別にある、という前提でさらに考えてみます。


恥ずかしいのは「比企谷先輩、いますか」という言葉を口にすること

残る可能性は、いろはの言葉どおり「先輩がいるかどうか聞く」ことが「超恥ずかしかった」というものです。

いろはが2年F組の教室で八幡を呼び出すためには、「先輩いますか?」という尋ね方ではダメです。尋ねた相手が結衣か葉山なら、ギリギリ通じた可能性もありますが、残念ながら、いろはが最初に接触した相手は戸部でした。戸部が相手では、葉山なのか、結衣なのか伝わりませんし、あるいは、三浦や海老名、川崎、戸塚という可能性もあるでしょう。このときばかりは、「比企谷先輩いますか?」と尋ねる必要があるのです。

かつて、結衣が八幡を探したときも、結衣は「比企谷くん、見なかった?」と聞いて回るしかありませんでした。「ヒッキー見なかった?」では、「ヒッキーって誰?」という答えしか返ってこないからです。

「あー! こんなとこにいた! 」[中略]
「わざわざ聞いて歩いたんだからね。そしたら、みんな『比企谷? 誰?』って言うし。超大変だった」[中略]
 由比ヶ浜は胸の前で指を組み、それをうにょうにょと動かしながらもじもじとし始めた。
「け、携帯教えて? ほ、ほら! わざわざ捜して回るのもおかしいし、恥ずかしいし……。どんな関係か聞かれるとか、ありえ、ないし」(2巻27ページ)


 そう思ったのは向こうも同じなのか、由比ヶ浜に視線で説明を求める。
「えっと……」
「あ、うん。そうそう同じクラスの比企谷くん。こちら、同じクラスの相模南ちゃん」(5巻172ページ)


つまり、いろはのセリフから省略されているところを補うなら、「先輩がいるかどうか聞くのに『比企谷先輩はいますか』と口にするのが、超恥ずかしかった」となるのでしょう。

もっとも、いろはは、結衣とは違って、どんな関係か聞かれたから恥ずかしいというわけではありません。八幡との関係でも、八幡への要件でも、もし尋ねられたなら、「生徒会の仕事を手伝ってもらってるんです」と答えるだけです。

それでは、なぜ恥ずかしかったのかというと、先ほど補ったとおり、「比企谷先輩はいますか」という言葉を口にしなければならなかったからです。要するに、慣れない呼び方をする気恥ずかしさです。

だから、もともとの恥ずかしさは、大したことありません。でも、「それっぽっちのこと」を恥ずかしいと感じている自分に気付いて、もっと恥ずかしくなり、そんな状態だったから、普段なら気にならないはずの戸部の言動まで、恥ずかしく感じ、結果として、「超恥ずかし」くなってしまったのでしょう。

ここでのポイントは、「比企谷先輩」という呼び方そのものは恥ずかしくないということです。たとえば、携帯電話がない時代に比企谷家に電話し、電話口の家族に対し「八幡さん、ご在宅ですか?」と尋ねる場面とは似て異なります。

このポイントには、二つの意味があります。

一つ目は、前述のとおり、それ自体はたいして恥ずかしくないことに恥ずかしさを感じたことで、より恥ずかしさが増したこと。

二つ目は――これが重要なのですが――、「恥ずかしさ」は、「比企谷先輩」という呼び方へ変えない理由にはならないこと。いわば、「今回は」恥ずかしかっただけで、いろはが頑なに「先輩」呼びを続ける本来の理由は、別にあるということです。

つまり、「『比企谷先輩』と呼ぶのが恥ずかしかったから」という答えも、部分的な解答でしかありません。


理由3:「先輩」の独り占め

そう、わたしの先輩は本当に最低で、それはもうとんでもないド腐れ外道なのだ。(14巻357ページ)


そもそも、いろはが八幡を「先輩」と呼べるのは、いろはが八幡の「後輩」だからです。では、八幡にとって、いろははどのような後輩なのでしょうか。視点を入れ替えて、八幡側からいろはを見てみましょう。


八幡にとってのいろは

先に答えを示せば、八幡から見たいろはは、「世界の後輩」です。それはつまり、「最強の後輩」であり、「唯一の俺の後輩」ということです。

世界の後輩から確認してみましょう。

我々は認識を改めるべきだ。あれこそは、世界の後輩・一色いろはなるぞ……。(12巻255ページ)


「世界の後輩」だけでは、意味がよく分かりません。この言い回しは、「世界の妹」を受けたものです。世界の妹とは、次のような定理により言い表されます。

なんせこちらの妹は、世界の妹比企谷小町だ。小町の前に小町なく、小町の後に小町なし。小町を超える妹を俺は知らないし、俺の妹は小町しかいない。(12巻251ページ)


ここで、世界の妹の定理を、世界の後輩に類推適用することで、次の結論が得られます(なお、ここは原作からの引用ではありません)。

一色の前に一色なく、一色の後に一色なし。一色を超える後輩を俺は知らないし、俺の後輩は一色しかいない。


つまり、世界の後輩であるということは、それすなわち、最強の後輩であり、唯一の俺の後輩であるということなのです。ここで論証終了としてもよいのですが、念押しで、傍証を確認しておきましょう。

最強の後輩について。

やはり、一色いろは最強の後輩である。(12巻212ページ[5章の章題])


おいおい、俺の後輩最強か。(13巻104ページ)


唯一の俺の後輩について。

俺を先輩と呼ぶのは一人しかいないし、こんなことしてくるのも妹の小町の他には、一色いろはしかいない。(9巻108ページ)


そして、俺の後輩は、小悪魔めいた笑顔で微笑んだ。(9巻363ページ)


おいおい、俺の後輩最強か。(13巻104ページ)


そう言って笑う一色いろはは、その表情や仕草こそ、可愛くあざとくわざとらしい。立ち振る舞いでもって、俺の後輩、俺たちにとっての一色いろはとして、全力でそこにいてくれているのだ。(14巻238ページ)


愛ゆえに……

さて、注目すべきは、「唯一の俺の後輩」の部分、すなわち「俺の後輩は一色しかいない」という関係性です。

八幡にとって「俺の後輩は一色しかいない」ということは、八幡を「先輩」と呼ぶのも「一色しかいない」のです。ですから、いろはは、八幡を「先輩」とだけ呼びます。それで通じるからです。

つまり、いろはの「先輩」呼びは、「俺の後輩は一色しかいない」ことの裏返しであり、「先輩の後輩はわたししかいない」ことを意味するのです。

そして、なにより、いろはは、「先輩の後輩はわたししかいない」つまり「先輩の後輩=わたし」という関係性――いろはが八幡の後輩ポジションを独り占めしていること――を気に入っています。

「だから、しばらくは……」
 一色はそこで言葉を区切ると、こそっと秘密めかすように俺の耳元に唇を寄せて、最後にもう一つまみ。砂糖まみれのスパイスを加えてくる。「こんなことするの、先輩にだけですよ」(10.5巻97ページ)


先輩の後輩の一色いろはです。よろしくどうぞ」
「あ、どもども、いろはさんですか」(14巻474ページ)


「新⼈とか⼊ってこなくていい……。わたしが永遠の愛され後輩ポジでいたい……」
いかなる場所でも、何をしてても、一色いろはは清々しい。


それゆえ、いろはは、八幡を「先輩」と呼びます。

いろはの「先輩」呼びには、「先輩の後輩はわたししかいない」といういろはの主張が込められています。「奉仕部の仲間」とか「彼女」とかはおいといて、「先輩の後輩」だけは、わたしのものだ、という主張です。

つまり、いろはが「先輩」と呼び続ける本当の理由は、「『先輩』だけは、わたしが独り占めしてます」という愛情表現だからです。